「お寺鍾馗」率ランキング(2) 市町村編2011年10月26日 23時56分47秒

引き続き「お寺鍾馗」の分布について。

まずは、比率の高い市町村トップ10.
ただし、発見数が10体未満の自治体は除いてあります。

         お寺鍾馗の数/全体の数 お寺鍾馗の割合
 1.滋賀県 竜王町     58/     58    100.0% 
 1.奈良県 河合町     28/     28    100.0% 
 1.大阪府 箕面市     24/     24    100.0% 
 1.兵庫県 太子町     12/     12    100.0% 
 5.滋賀県 愛荘町     20/     21    95.2% 
 6.滋賀県 安土町     34/     36    94.4% 
 7.京都府 井手町     15/     16    93.8% 
 8.大阪府 枚方市     38/     41    92.7% 
 9.滋賀県 東近江市 208/   226    92.0% 
10.滋賀県 日野町     32/    35    91.4% 
10.滋賀県 彦根市     32/    35    91.4%  

ご覧の通り、滋賀県の健闘が目立ちますね。

逆に比率が低いのは、

         お寺鍾馗の数/全体の数 お寺鍾馗の割合
 1.愛知県 碧南市    0 41    0% 
 1.長野県 安曇野市 0 27    0% 
 1.愛知県 一宮市    0 12    0% 
 1.和歌山県 橋本市 0 12    0% 
 1.岐阜県 山県市    0 11    0% 
 6.愛知県 東浦町    1 152   0.7% 
 7.愛知県 美浜町    2 56    3.6% 
 8.愛知県 阿久比町 1 26    3.8% 
 9.愛知県 高浜市    2 34    5.9% 
10.愛知県 知立市    4 61    6.6% 
11.京都府 京都市   85 1293 6.6%  

こちらは愛知県が健闘?
愛知県でよく見るのは、お寺の前の家なのに
お寺に背を向けるように揚げられた鍾馗さん。
伝言ゲームのように、ところ変われば鍾馗さんに祈ることも
変わっていくのですね。

「お寺鍾馗」率ランキング(1)都府県別2011年10月24日 21時23分21秒

これでもか!というマニアックな分析を披露します(^^;

当ブログの読者であれば「お寺鍾馗」という意味わかりますよね。

都道府県別に、また市町村別に「お寺鍾馗」の割合を調べてみました。
もちろん私が記録した範囲での数字です。

まずは都府県別のランキング。
         お寺鍾馗の数/全体の数 お寺鍾馗の割合
1.滋賀県     788/ 923   85.4% 
2. 兵庫県     72/ 90     80.0% 
3. 奈良県    626/ 898   69.7% 
4. 大阪府    492/ 785   62.7% 
5. 三重県    454/ 779   58.3%
6. 岐阜県     43/ 209    20.6% 
7. 京都府    252/1507   16.7% 
8. 愛知県    231/1822   12.7% 
9. 和歌山県   2/   27    7.4% 
10.埼玉県     0/   18    0.0% 
10.長野県     0/   52    0.0% 
10.東京都     0/   10    0.0% 
全国    2961/   7125    41.6%  

鍾馗さんの本場、関西各県が上位を占めて、東に行くと低くなります。
関西では「お寺鍾馗」が多数派ですが、東海地方では少数派となり、
東日本ではまったく見つかっていません。

京都府の場合はちょっと特殊で、京都市内とそれ以外ではまったく別の傾向を示します。

京都市内  85/   1293     6.6%
それ以外  167/   214   78.0%

市外の割合は周辺の関西各地と同様、「お寺鍾馗」が多数派ですが、
京都市内にはほとんど「お寺鍾馗」がないことがよくわかりますね。

京都市だけが、鍾馗さんをあげるにあたって
他地域とはまったく違う理由であげていることが想像できます。

鐘馗 撲滅キャンペーン2011年10月15日 18時30分17秒

ネタに乏しいので刺激的なタイトルで勝負!というわけではありませんが・・・
(ちょっとあったりして)

困ったことがあります。

ネットの世界に「馗」がはびこっているんです。
正しくは「馗」。
ではなく
確かに間違えやすくて筆者もどちらが正しいか、分からなくなることもありますが。

この間違いは半端じゃなく広がっていて、半分くらいの人は間違えている感じ。
これだけ間違っているところが多いと、いつの間にかそちらが正、ということにもなりかねない状況です。
言葉は生き物なので、こういう変化は付きもの、と言ってしまえばそれまでですが、
ちょっと自分は抵抗あるなぁ。

テレビ局や出版社、研究論文、鬼瓦製造業、老舗鍾馗関連サイトまで。
個人ブログならさておき、錚々たるサイトが間違えておられます。
もちろんこれは氷山の一角で
失礼かとは思いますが、今後のためにもできれば直していただきたいため
あえてリンクを掲載しておきます。


今どきの検索エンジンは賢いので、「馗」で検索すると「馗」もヒットしてきますが
逆はどうも苦手のようです。
せっかくの貴重な情報が、誤字でWWWの海に沈んでいってしまうのは残念です。

こちらをご覧になって気づいた方、ぜひ修正をお願いいたします。

(偉そうなことを書きましたが、自分のサイトが大丈夫か確認しないとな・・・)


【2011/10/15 追記】

松山におそらく日本で唯一の鍾馗さんを本尊とする寺、「しょうき寺」がありますが、
このお寺「鐘馗寺」と表記するのだそうです。 ひぇ~


信州ルネッサンス2011年09月09日 23時38分22秒

おおげさなタイトルですが、このブログですから
もちろん鍾馗さんの話題です。

ここのところ多忙でブログの更新どころか探訪もままならず・・
今日は他人のふんどし記事です(・・;)

佐久市岩村田の鍾馗さん
(佐久市岩村田 2007.12発見 #888と同じタイプの鍾馗さん)

ご縁があり、4月に安曇野ハーブスクエア・さんろくさんを訪問し
おとんさんとともに安曇野の鍾馗さんをご案内いただきました。

その後もさんろくさんは精力的に周辺の探索を続け、
続々と鍾馗さんを発見しています。

さらに!最近になって強力な探索人が登場しました。
naoさんという女性がさんろくさんとともに、
さらには単独で信州の鍾馗さんの探索を行っています。

見事な探知能力で見落とされていた鍾馗さんを次々と発見されているようです。
そのあたりの状況はおとんさんの掲示板に随時アップされているので
ぜひともご覧ください。

これまで、せいぜい年に1、2回、散発で訪問するだけで
わずかな例を知るだけでしたが、おふたりの丹念な探索の成果で
これまで点だった分布が、旧街道に沿って少しづつ線になりつつあります。

これまでほとんどといっていいほど情報がなく、
長野県にはほとんど鍾馗さんはないのではないかとさえ思っていましたが
まったく浅はかで嬉しい誤算、
信州の鍾馗さんたちが発見されるのを待っていて
お二人が訪問すると微笑んで姿を現すかのようです。

しばらくは掲示板、大注目です。

去る者、来る者2011年06月06日 19時52分24秒

6月4日は京都市内を洛西を中心にうろうろしました。
鍾馗さんはまだ整理中なので、探訪記は後日。

今日は街角で見つけたちょっとしたドラマ?を紹介します。

ところは中京区西ノ京池之内町。姉小路通の神泉苑通と美福通の間。

右(東)に見える瀬古クリーニング店は取り壊したばかりのようで、
更地になっていました。
昨年2月に通りがかった際に、看板の「洗張・丸染」の文字の左側あたりに
下の鍾馗さんを見つけたのですが、家と共に失われたと思われます。

姉小路の失われた鍾馗さん

いっぽうで、
左手(西)の「大衆食堂」のさらに左隣の家が建て替っていました。

姉小路の建て替ったお宅に鍾馗

二軒まとめて二世代住宅に建替えられたのでしょうか。
軒には鍾馗さんがのっています。

姉小路の鍾馗さん(#159)

この付近のストリートビューが高精細になったのは昨年も後半と思われ、
この家も、1年以内に建替えられたに違いないのですが、
鍾馗さんには古色があるのが不思議です。


目と鼻の先で家が壊され、改築され、
それとともに鍾馗さんも代替わりしていきます。
鍾馗さんが消える一方の他の町に比べれば、
古いものをそれなりに消化しつつ
新陳代謝していく京都はまだまだ頼もしいですね。

2011/5/9 伊那谷 飯田~宮田2011年05月15日 22時53分24秒

先日、安曇野ハーブスクエアのまきさんに鍾馗さんを案内いただき、
安曇野に多くの鍾馗さんが残されていることに瞠目しました。

いっぽう、愛知大学の高原隆さんの著書「鬼板師 日本の景観を創る人々」によれば、
江戸時代から、三河地方の鬼板師が信州方面に出稼ぎに行って鬼瓦を
焼いていたとか。

安曇野でこれだけの鍾馗さんが見つかるならば、
三河から信州へ向かう街道沿いの他の街にも、
彼ら三河職人の瓦鍾馗が残されているかもしれません。

三河から信州に向かうには、当時は足助、稲武を経由して
飯田に至り、伊那谷を塩尻へ抜ける三州街道がメインルート。
伊那谷は広すぎて、なんの手がかりもないことから、
まずは手始めに飯田から駒ヶ根にかけての南半分を
ざっと車で探索してみました。

といってもまったく土地勘はなく、街道沿いを中心に
地図でおおよそのあたりをつけた後は、
現地で街のたたずまいを見ながら出たとこ勝負の探索です。


この日の助手は鍾馗にはあまり関心のない人。
ちょうどりんごの花の時期にかこつけて連れ出しました。

あちらこちらにりんご畑、さらには梨畑も花の時期で
どちらも白い清楚な花ですが、この時期の伊那谷は非常に華やかです。

さらには遠景に南アルプス。これはたまりませんね。

松川付近からの南アルプス
塩見岳、悪沢岳、赤石岳 あたりが見えています。

そして反対側には中央アルプスもきれいに見えました。

飯島からの中央アルプス
これは空木岳、南駒ケ岳付近らしいです。

中央道でこのあたりを通ることはよくありますが、
両方の山々がこんなにくっきり見えたことは記憶にありません。
これを見ただけでもこの小旅行、十分満足です。



肝心の鍾馗さんですが、一軒だけ見つけました。
飯田市の少し北にある豊丘村田村。
天竜川の左岸にあって、三州街道からは外れています。

予定していた道が、土砂崩れの復旧工事で通行止めになっていて、
急遽、道を変えたところで発見しました。
こんなことを書くと笑われますが、「鍾馗さんのお導き」を感じてしまいます。

豊丘村神稲の鍾馗さん

一軒とはいえ、素朴な鍾馗さんが三体と、謎の老人までおまけに載った豪華版。
博物館にすべて掲載しましたのでご覧ください。

結局、この日はこの一軒だけだったのですが、負け惜しみでなく満足。

その後駒ヶ根、宮田まで北上してこの日の予定を終了しました。

伊那谷南部の傾向、人型の飾り瓦は少ないですが、
凝った鬼瓦は時折り目にしました。
「探せばまだ見つかる可能性がないこともない」と
微妙な言い回しにしておきましょう。

三河から信州まで、鍾馗の道はつながるか?
探索はまだまだ続きます。

2011/4/24 奈良 橿原・桜井・天理2011年05月05日 23時09分40秒

記事化が遅れ、鍾馗さんについては既に博物館に掲載済なので、
ここでは途上で気づいた鍾馗以外のもろもろの瓦について紹介することにします。

まずはこちらの鬼瓦
橿原市醍醐町 養国寺山門の鬼瓦
(橿原市醍醐町 養国寺)

鍾馗さん#1281のすぐ横に位置します。

橿原市醍醐町 養国寺山門の鬼瓦 銘1

『明和七庚寅年 閏六月下旬』と読めます。
明和七年は1770年。平気で最古の鍾馗さんより古いな。
太陰暦なので閏月があります。

反対側の鬼瓦には作者の署名
橿原市醍醐町 養国寺山門の鬼瓦 銘2

橿原市醍醐町 養国寺山門の鬼瓦 銘3

『高市郡立位村 細工 大西』 でしょうか。
旧「高市郡」は現在の明日香村、高取町に加え、橿原市と大和高田市の一部を
含んでいましたが、「立位村」がどこになるのかはwwwの情報だけでは
わかりませんでした。


次は恵比寿さん。大和盆地は恵比寿・大黒が本当に多く、
ちょっと食傷しますが、この恵比寿さん、大棟から道端のブロック塀に引っ越して
よく目立っています。
桜井市大豆越 久米仙作の恵比寿
(桜井市大豆越)
桜井市大豆越 久米仙作の恵比寿
向かって左側に銘あり。

桜井市大豆越 久米仙作の恵比寿
あの久米仙でした。
しかも大泉 岡寅の刻印も。
やはり岡寅が瓦屋で、久米仙が鬼師なんでしょう。

久米仙、岡寅についてはおとんさん運営の掲示板に詳しいので
ご参照ください。


次も恵比寿さんです。
桜井市東田の恵比寿さん
(桜井市東田)

桜井市東田の恵比寿さん
ちょっと字が切れちゃいましたが、
「細工人 ヒラタ 大玉」 とあります。

大玉は鍾馗さんで3体見たことがあります。

しいて言えば、袴のような服と袖の翻り方が共通の作風かもしれません。

ヒラタという地名は、近在だと明日香村に平田という大字があります。(Mapion
平田には、瓦源という瓦屋がかつて存在していたようで、
こちらも上記、おとんさんの掲示板に記事があります。
興味のある方はご覧ください。


もうひとつ恵比寿さん。
橿原市醍醐町の恵比寿さん
(橿原市醍醐町)
細工としては前の二つに比べ今イチか。
橿原市醍醐町の恵比寿さん
刻印は不鮮明ですが、
『上田商店 大和大三輪大泉』 ではないでしょうか。
大三輪町は行政区画としては昭和30~38のわずかな期間存在していた町なので、
この恵比寿さんもこの時期のものと決めたいところですが
大神神社を「おおみわじんじゃ」と読むように、
「大三輪」という地名は古来からのもののようですので、この決め付けは難しそう。


小難しい銘談議はここまで。
以下は変わった瓦です。

小房町 京婦?
(橿原市小房町)

『京婦』でしょうか? 婦の字は変です。
いずれにせよ、意味がわかりません。


橿原市中町 三猿
(橿原市中町)

三猿といえば「見ざる、言わざる、聞かざる」が思い浮かびますが
この猿たちは盛装して桃や扇を持っています。
詳しくはわかりませんが、猿は山王神社の神の使いとされているそうです。
こちらのHPに詳しい)

この三猿があがるのは酢を醸造する会社でしたが、同じ建物には馬の飾り瓦も。
橿原市中町 馬

珍しいですね。


長くなりましたが、最後は見事な龍。
天理市小島町 龍
(天理市小島町)

2011/4/10 小坂井・豊川2011年04月17日 23時56分10秒

豊川方面に花見に出かけたついでに鍾馗さんを探してきました。
名鉄伊奈駅から豊川稲荷駅まで寄り道しながら約12km。

以前にも歩いたことがありますが、
今回は旧街道とおぼしき道を一直線に歩きました。
残念ながら目新しい収穫はありませんでしたが、
以前に小坂井の東海道沿いで見つけた鍾馗さんを再訪して来ました。
小坂井の鍾馗さん

この鍾馗さん、なぜか街道には背を向けています。
街道側からはこんな感じ。
小坂井の鍾馗さん(背面)

何か文字が書かれているのがおわかりですね。
2007年にはじめて見つけたときは撮影時に気がつかず、
写真を見てもせっかくの銘がよく読めませんでした。

左2007右2011

左が2007年の撮影、右が今回のもの。
これならはっきりわかります。

======================
明治■八年 未三月上旬 (■は"廿"か"十")
製造人 三州八名郡/鈴木金次郎/西郷小野田
======================

明治28年が未年なので、■は"廿"だろうと予想していました。

八名郡はかつて豊橋市の北東部に存在していた郡名。
小野田村は1889(明治22)に他と合併して西郷村になり、
さらに1906(明治39)にその西郷村が他と合併して石巻村になっています。
その後、石巻村は1955に豊橋市に編入されて現在に至っていて、
小野田村は現在の豊橋市石巻小野田町付近と思われます。

「西郷」という地名は明治22の合併以前の村名にはなく
"西郷小野田"という銘の表記は、
西郷村小野田の状態だった明治22年から明治39年の間に、
この鍾馗さんが作られたことを裏付けるものといっていいでしょう。

鈴木金次郎さんは色々な飾り瓦を製作していたのでしょうか、
自分の名を刻んだ印判を誂えています。
東三河地方は鍾馗の少ない地域ですが、
こうした職人さんが明治には確かに存在していたようです。


写真は二川稲荷の御衣黄。
緑がかった花を咲かす、珍しい桜です。

きれいに見えますが咲いていたのはこの二輪だけ(^^;
二川稲荷の御衣黄(桜)2011.4.10

やっぱ痒い!2011年02月25日 20時01分27秒

昨日の続き。
おとんさんから痒そう!というコメントをいただいて、
ふと、ちょっと前の写真と見比べてみました。

苔の増殖

左は2006年7月、右が先日の土曜日です。

やっぱり着実に苔が大きくなっている。

取ってあげたいですね。

以前に加西市の鍾馗さんを訪ねて市の学芸員の方にお会いしたとき、
「苔むした鍾馗さんに傷や手垢をつけたくなかったので、
苔をピンセットで丁寧に取りました」とおっしゃるのを聞いて
感動したことを思い出しました。

やっぱ変だ!2011年02月24日 22時56分19秒

伊賀上野でひときわ変な鍾馗さん。
伊賀市上野西大手町の鍾馗さん

このブログでも、博物館でも、みちくさ学会でも紹介してきていますが、
今回の再訪でも健在でひと安心。

でかい顔にアンバランスな細い身体。
妙に胴が長くて、むき出しの脚はずいぶん低いところからぬっとでています。
走っているようにみえますが、脚の向きと身体の向きは合ってなくて
横走り状態。

左手は振り上げているように見えますが、右手の状態は不明。
何のポーズなんだろう?

ということで、横から見たところを写してきました。

伊賀市上野西大手町の鍾馗さん

左手は頭の上に振り上げています。

伊賀市上野西大手町の鍾馗さん

ありゃ、右手も同じように振り上げていた。

伊賀市上野西大手町の鍾馗さん

これは以前の写真ですが、改めてみてみると確かにオーバースローで
振りかぶった投手のよう。
握った両手の前にあるのは刀の鍔?
ということは刃は手前に向かって突き出ていたのか?
勢いをつけて正面の敵に刀を突き立てる瞬間でしょうか。

現在の雰囲気には似合わず、ずいぶん物騒なポーズだし、
そんな鍾馗さん、他に見たことがないなあ。

やっぱりこの鍾馗さん、謎めいて面白い。