2012/11/10 野洲~近江八幡 朝鮮人街道 2 ― 2012年11月12日 23時21分26秒
朝鮮人街道という名前は、江戸時代初め、李氏朝鮮の使節、「朝鮮通信使」が
徳川将軍を表敬訪問する際に通行するために整備されたことにちなみます。
今で言う「全権大使」のような人の一行で、500人にものぼる大部隊だったそうです。
もともとは織田信長が古くからの生活道路をつなぐ形で整備したといわれ、
徳川家康が関ヶ原で勝った後、上洛する際に利用した道筋としての吉例があり、
大名の参勤l交替の際には使用することを認められていなかったそうです。
江戸時代を通じて朝鮮通信使がこの街道を使用したのは計十回ですから、
平均して二十数年に一回しか通らなかったことになります。
以上のような来歴があるため、歩いてみても結構あちらへ曲がりこちらへ曲がりと
一直線ではありません。また古い街道集落の風情はありますが、肝心のお客さんが始終行き交う訳ではないので、宿場町として発展することはなかったようです。
詳しく知りたい方はこちら
朝鮮人街道は野洲市行畑で中山道と分かれます。
今回はここから探訪スタートですが、分岐前の中山道でさっそく1体発見。
(野洲市野洲)
守山で見つけた、こちら(#0534)の兄弟とみました。
京都系の血を引く近江系。
(野洲市野洲)
街道から少し外れた顕了寺に向ってあがった鍾馗さん。再録(#0537)
野洲駅周辺は市街化が進み、鍾馗さんは見当たりません。
少し迂回してJRを渡り、富波乙に入ると再び古い街道集落の風情が現れます。
(野洲市富波乙)
こちらも再録(#1282)。前回は正面のお寺(遍照寺)の門が閉まっていて
正面から撮影できませんでした。
(野洲市富波乙)
この鍾馗さんも光徳寺周辺。再録です(#1283)。
手のポーズがごちゃごちゃしていてどうもよくわかりません。
以下三体は街道からちょっと外れた野洲市上屋の見星寺を取り囲むように
あがっていました。ここは初訪問。
この二体は明らかに兄弟で八幡系の香りを感じます。
大きな目とおちょぼ口のバランスが微笑ましい。
#1424として新種登録
ずいぶん小さい鍾馗さんでした。うつむき加減でしかめっ面。
#1425として新種登録
この後、朝鮮人街道は田園地帯に入り、日野川を渡って近江八幡市に入ります。
近江八幡市街地で見つけた鍾馗さんについては、次回に紹介します。